震災との係わり
東日本大震災は、被災範囲が非常に広く、多くの国民に人的係りがありました。
この工事で差し茅を担当した熊谷産業も被災者のお一人です。材料検査で伺った一日の見聞を報告します。尚、熊谷さん手持ち茅材を使いましたので、福島原発から離れていましたが念の為、放射能含有検査を行いました。
■熊谷産業の被災 2000年の里山民家新築時に熊谷産業が茅葺を担当しました。その後の茅の状態を見て頂いていた事もあって、今回の差し茅工事を担当することになりました。
熊谷さんの事務所は宮城県石巻市北上町橋浦字南釜谷崎<地図で赤矢印>にあります。 石巻市は南面と東面が太平洋に面しています。東面のほぼ中央部に原子力発電所のある女川町がありますので。海岸線は石巻市中心地から牡鹿半島までの南側と、北部北上川河口域の二つに分かれています。熊谷産業は、この北上川河口にあります。河口付近10キロほどにわたって茅葺材料のヨシが群生している為、地場産業としての茅葺業が成立していたのでしょう。
熊谷宅は河口から3キロ程の南釜谷崎地区にあり津波に家屋敷そっくり流されてしまいました。不幸中の幸い、会社関係者に人的被害はなかったそうです。
里山新築時の1999年、材料検査にお伺いした時の写真が@です。会社と茅葺の社長宅が一つの敷地にありました。今回、お伺いするとプレハブ事務所(写真A)に変わってました。プレハブは暑くて寒いので、仕事のノウハウを生かし、茅葺屋さんの看板を兼ね外壁と屋根に茅束を取付け断熱をしてありました。海外の技術を取り入れたそうです。
■大川小学校<地図で紫矢印>(写真C) 大震災の中でも特に大きく報道されたのが大川小学校です。熊谷産業の対岸やや上流に大川小学校がありました。集落の中に建っていた学校はぽつんと残っていました。地震発生後50分頃、津波が襲い、児童108名中70名が死亡、4名が行方不明、教職員13名中9名が死亡という痛ましい災害を受けました。校舎前の祭壇に案内され、地震直前までコンクリート造の個性的な校舎に子供たちの楽しげな声が響いていた事を思うと、ただ合掌するのみでありました。
■白浜復興住宅<地図で緑矢印>(写真DE)
次に熊谷さんも係っている復興現場を案内されました。これは復興住宅ですが、写真で分かるように、仮設でなく、恒久的復興住宅です。写真は大震災後9.5か月後で、もう入居が始まっています。完成次第、順次入居するとの事ですが、規模は関係なく、この早い対応に賞賛を送りたいと思います。工学院大学の企画・設計・募金集めで実施されたそうです。海に生計を係る住民が多く、各戸の窓からは海を臨めます。熊谷産業も地場建設産業の一員として、このプロジェクトに積極的に参加しています。
■南浜町の被災地で(写真FGHI)
帰りに石巻市南部、大きな街の被災地南浜町に寄りました。殆どの住宅は流出・全壊・半壊して撤去されていました。何軒か残っている内の1軒を見ました。木造ですが構造体が非常に強固で重い(瓦屋根)建物でした。海側開口部の細い柱が折れていましたが、内部の柱の傾きは小さく、北側外壁の被害は軽微なものでした。隣近所の建物との関係もあったでしょうが、建築構造によってこれだけ違うものかと驚きました。
@ 1999年冬 熊谷産業社長宅
A 2012年1月 社長宅敷地に建つプレハブ会社事務所
北上川の河口付近10キロほどにわたってヨシが群生している。B地図:<赤矢印>熊谷産業 <紫矢印>:大川小学校
<緑矢印>:
白浜復興住宅
C 2012/1/4 大川小学校
D 白浜復興住宅 E 白浜復興住宅2階内部
F 石巻市石巻港に面する南浜町の被災地 Gその中にぽつんと残る住宅。殆どの木造住宅が流されたのになぜ残ったか。
H 間取り、外観は今の住宅であるが構造体は伝統民家と同様なプロポーション。大黒柱が数本立つ。 I 民家のように他の柱も太めである。
茅葺屋根の維持管理
石巻市の地震被害

鈴木啓二/建築設計社のホームページ
トップページへ次、維持管理インデックスへ前、見学会に戻る