鈴木啓二/建築設計社のホームページ
入家住宅の地域的特性 民家の観かた1:屋敷配置狭山丘陵での場合
この施設は里山体験を学ぶ教育施設であるため、地域的、歴史的考証に則り、計画されなければならない。始めに屋敷内の建物配置について述べる。中央の太線で囲んだ部分が当敷地である宮の入谷戸。
A.屋敷構え(屋敷内の建物の配置や向き)
右の地図は、この敷地がある明治初期の岸村(現在の武蔵村山市岸)と隣接の三ツ木村、殿ヶ谷村付近の地図である。山麓に延びる青梅街道沿いに自然村が広がる。新田開発(例えばこの敷地、直ぐ南の砂川新田)の計画的村落と違って、屋敷の位置取りや屋敷構えはバリュエーションに富む。宮の入住宅の屋敷配置を決めるに当たり、狭山丘陵に連なる地域例(以下は各市教育委員会で纏めたデータ)から検討を進めた。
東村山:集落が自然の地形を利用して配置された分散型で、屋敷地は南面した傾斜地を選び、南からにわ、主屋、屋敷林と配置される例がおおい。
東久留米:屋敷の立地条件としては、先祖伝来の経験から、南傾斜地で展望がよく、前背面に耕地を持ち、しっかりした地山の上で、屋敷の背面は適当な隆起があり、北風を防いでくれるとともに湧水が得やすい、といった地形が選ばれていた。田畑までの距離も重要であったが、それ以上に(この近辺は谷戸田が多く)水の氾濫のない位置を選んだ。屋敷内の配置については○屋敷地まわりは高垣(グネ)を回し、風を防いだ。○道との関係で一定ではないが殆どの家は南向きである。○主屋の前を庭にして、その周囲に外便所、納屋、土蔵を配置する。○主屋の背後に水場があり(井戸になったのは江戸後期からである)、周囲に木小屋、納屋、土蔵を置いている。○屋敷の裏手は竹林や杉林とし、その後ろを日常の為の菜園畑とする。
清瀬(丘陵から少し離れた地区で他の武蔵野地区と同様である):屋敷の西から北に渡って、樫、杉、くぬぎ、欅、竹などを植えた屋敷林を植え、南向きの主屋を中心に、井戸、納屋、蔵を配置し、東南に広がり、全体的に冬の強い北西からの季節風と密接な関係がある。ほぼ中央に主屋を南向きに配置し、その周囲に土蔵、納屋、蚕室、鶏舎など付属棟を配置するのが一般的である。蔵は一農一棟であるが、富農層になるとその数が増える。井戸の位置は鬼門を避けたといわれる。

以上の一般的傾向と併せ、武蔵村山、東大和近辺の個別のデータをもとに、里山民家の屋敷構成を右図のように計画した。 屋敷地は丘陵を背に南斜面で、間口24間、奥行き36間の規模である(江戸時代、屋敷地にも税金が掛ったから、無闇に大きくは出来なかったが、明治初期ごろ埼玉側での平均の坪宅地面積は290坪であった)。屋敷周りは、この地域に多いヒイラギの生垣である。南側生垣中央に腕木門、屋敷地のほぼ中央に主屋を南面させ、農作業のための庭を囲んで西側に蔵、東側に納屋を配置している。これらはこの地区の代表的屋敷構えである。主屋背後に並んでいるのは、茅葺を現在の法規で作るための消火設備の収納庫である。北西隅に農機具を収納する為の納屋がある。北西側には現在、管理事務所が建っているが、将来ここは孟宗竹を主とした屋敷林のゾーンとする予定である。
参考であるが明治初期まで、この谷戸内に民家はなかった。この地域に田は少なく谷戸がその重要な土地であった。水温は不利であるが水田耕作可能な僅かな土地であった。岸村は青梅街道から北側に形成され、一番北よりは須賀神社付近までである。丘陵が街道まで迫っていた殿ヶ谷村、三ツ木村では青梅街道の南側まで集落がひろがっていた。それより南は水利が悪かったのであろう。青梅街道の南3kmの五日市街道に砂川新田の集落があるが、ここは玉川上水の建設により発展した村である。


明治15年岸村付近の地図:中央の太く囲んでいる部分が敷地の宮の入谷戸

北2棟は利用の為の維持施設(消防設備と倉庫)である。点線は管理のプレハブ小屋で、将来、除却され屋敷林・竹林を植えるスペースである。
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