鈴木啓二/建築設計社のホームページ
入家住宅の地域的特性 民家の観かた10:ゆどの便所
H.小部屋、その他 参照
■ゆどの この地域で江戸後期の民家には大戸口の横にユドノがあった例が多い。旧宮鍋家住宅では、調査時には既にユドノの部屋はなかったが、地中に排水溜が発見され、ユドノのカド柱の位置に礎石もあり、他の例からユドノと判定された。床が簾子になっていて、そこから流れ落ちた湯は地中の排水層に溜められた。この時代の入浴法は、湯に浸かるというより行水のやり方で、大釜から汲んだ湯をユドノの桶に入れ、それを浴びた。わざわざこんな表まで運んで来ることもないように思われるが、湯を腐らせておいてそれを肥料にしたとか、庭先に設けた便所の下肥(人糞)、あるいは馬糞から作る堆肥と混ぜて肥料にしたという話があり、溜め水利用と関係がありそうである。
■便所 江戸時代、下肥は大切なものであった。都市での武士や町人住居の糞尿は近郊農民が費用を払って買っていった。買ってといっても大抵は農産物と交換したようである。それだけ貴重なものであったから、当然、農家では大切に活用した。古い時代の民家では庭先にだけ設けられていた。これは農作業中に土足のまま使えて便利だったし、間に合わずに野山に排泄しては勿体なかったのであろう。作り方は大戸口の傍に穴を掘ったり、桶のようなものを沈めて床板を渡し、簡単に屋根を架けた程度であった。この地方では便所のことを後架(ゴウカ)といい、時代が下り江戸後期から明治期に入った頃、主に客用のために奥ノ間の床ノ間の後ろに上後架(カミゴウカ)と呼ばれる便所が作られ、旧宮鍋家住宅の場合もそこに便所があった。 慶安のお触れ書き(1648年):便所に対する幕府の指導
百姓は、こへ(肥)はい(灰)調え置き候儀専一に候間、せっちんをひろく作り、雨降り候時分、水入らざる様に仕るべし
=百姓にとって肥料となる肥や灰を用意しておくことが、なによりも大事であるから、便所は広く作って、雨が降っても水が入り込まないようにせよ
■ うち縁・そと縁 この呼称は現在の建築的呼び方である。夜間、民家の内外は必ず板戸で塞がれるが、縁側が板戸の外にあるか、内にあるかの違いにより、呼び方を変えている。古式は縁が有る無しにかかわらず、座敷デイ廻りは1間ごとに柱を建て、開口部は3本溝として、雨戸を2枚、障子を1枚という構成で、昼は雨戸を重ね3尺幅の紙障子から採光していた。(社寺や書院造りでも構成は同じで、外回りはシトミ戸などの雨戸と障子がセットになっている)旧宮鍋家住宅は建築技術が進んだ段階のもので、南側は外縁でありながら溝を一本引きとして雨戸を両端の戸袋に引き込み開放性を高めている。宮鍋家のそと縁とうち縁のその他の大きな違いは、床の高さである。そと縁は室内の床板より一段下がっているが、うち縁は平らにはっている。外縁が下がっているのは、縁長押の納まりとしての伝統であろうが、その用途の発生に歴史的なズレがある為と思われる。南側のそと縁は外観がよく見えるところであり、儀式入口の用途もあることから、昔の様式をそのまま踏襲した。しかし、うち縁はその作る目的が内にする必要があったのではないか。おそらく上後架(床ノ間の後ろに作った内便所)を様式的に発生させた時、このうち縁が出来たと推測される。夜、雨戸を閉めた後の便所利用のためであろう。古い形式の民家にはうデイ・奥の間の妻側に縁がある例は少ない。
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