鈴木啓二/建築設計社のホームページ
入家住宅の地域的特性 民家の観かた3:屋根の形
2.屋根の形
当、宮ノ入家住宅は入母屋、平入り、南入口の民家である。それらの形式が地方的特色として、どのような位置づけか見てみよう。
■寄棟・入母屋:寄棟と入母屋が、茅葺屋根の代表であるが、日本地図的に見ると
<寄棟域:全国的に分布>
<入母屋域:近畿に多い>・・・・・・という分布になっている。狭山を中心にもう少し近い範囲を見ると、右の関東地方の屋根型地図のようになる。武蔵から平地続きの、下総、常陸、上州、相模と、ぐるりと寄棟域に囲まれ、山側の奥多摩、甲斐が、兜造り、切妻になっている。なぜ武蔵だけが入母屋であったのだろうか。
武蔵の国地域にある狭山丘陵南麓(東京側)で昭和40年代に行った立川、青梅、東村山、東久留米、小金井、清瀬への調査がある。この結果は圧倒的に入母屋が多い。東端地域の清瀬まで行くと狭山続きは入母屋でその先が寄棟に変わる。南地域の東京でも武蔵寄りは入母屋で、世田谷まで行くとまた寄せ棟域に変化する。このように、武蔵村山付近はかなり特殊な環境での入母屋域になっている。入母屋破風造りは京都周辺に多く、支配階級の建築から発した格式ある意匠で、民家での利用はご法度の地方もあった。

■棟の向き:この地域では座敷が南向きが一般的で、故に棟は東西に向いている。しかし気候が穏やかな為だろうか、中には南北を向いたものもある。
こうした地域とは対照的に集落中がきっちり同じ形に出来ている場合もある。自然が厳しければ厳しいほど、統一された形式で強い形現れがる。例えば、白川郷の合掌造りは、棟が南北で(真南から民家を見た場合、里山民家は軒が見えるが、白川では三角形の妻が見える)、屋根は60度くらいの急勾配だ。独特な形態が皆、同じ方向を向いている景観は壮観である。
■平入り、妻入り:宮ノ入家住宅はこの地域の多数の民家のように南面平入りだ。現在では、住宅の玄関は道路との関係で配置する。ところが昔の民家は不思議にも、道路と無関係の場合もあるのだ。例えば、砂川新田では、東西に走る五日市街道の南北両側に民家が張り付いている。北側の家の入り口が南に向いているのは自然だ。ところが南側にある家も南側にある。道路から家の周りをぐるっと廻って玄関に入るのである。また関西にある例では同じく東西に走る街道の両側にある民家が、すべて東向きの妻入りであったりするのである。
◇このように棟・入口の向きや、平入り妻入りを様式たてる要因は単純ではない。前記の白川合掌造りでは屋根の面積があれだけ大きいのだから、夏は日当たりが大きく暑いだろうと思われるが、日射量を実際計った報告によると、棟の向きと勾配が工夫されていて、春秋に最も日射を受け、夏には小さくなって居住や養蚕のために優れた構造になっている、というのである。このように気候や地形、風のむき、日の当り方、などいろいろな条件の複合によって形成される。これに加えて重要なことは、今で言う専用住宅ではないことだ。農家であり生産工場であって、産物が家の構成に大きな影響を与えてきた。
◇参考意見であるが南北方向の棟は茅葺屋根の維持に都合がよっかったのではないだろうか。茅葺の傷みは、陽当たりの小さな所が大きい。一年を通して、屋根全体の乾燥状態が良い南北棟は大きな利点がある。(合掌造りの多くは切妻で北向き流れが無い)
■入母屋と寄棟の決定的違いは屋根の一部に開口が有るか無いかだ。 開口があれば換気と採光が取れ、屋根裏利用の条件が非常に良くなる。広域で見ると、これだけ廻りの地域が、寄棟なのになぜこの武蔵だけが入母屋になっていたのだろうか。勿論、たまたま流行ったとか、他の理由は否定できないが、最も可能性が高いのは、養蚕との関係での定着ではないか。
 江戸時代から、つむぎの産地であった八王子では、かなり早くから養蚕が行われていた。ここでは明治の前半まで、比較的、原始的な蚕の飼育法が行われていた。それが民家のどこで飼育されていたかというと、母屋の屋根裏で、簾の子床の上で行われていたのだ。いくら原始的な飼育法でも通気や明るさが必要であったわけで、八王子の養蚕民家は、その時点ですでに入り母屋であったと思われる。 右図は今先生のスケッチで”養蚕農家のいろいろ”と題されている。甲州、上州、八王寺地域の民家で、伝統的に日本で最も養蚕が盛んな所である。、これに長野を加えると1970年の統計でも、日本中の半分以上を生産している。この統計とこの図を見れば、養蚕が民家にどう影響を与えたか分かる。
 白川郷の合掌造りは養蚕のために江戸時代に発生したと考えられているが(建築大辞典による)スケッチのバリエーションをみると、甲州の切妻は元々屋根裏利用のために発生したと想像したくなる。上から2番目の図を見ると、明らかに養蚕以前に切妻があって、養蚕のために改造したという形態が分る。その下の上州は寄棟に手を加えたというのが如何にも分かりやすい。甲斐と武蔵の中間地帯、今で言うと奥多摩町あたりは兜造りの地域であるが、兜造りというのは切妻から発生して屋根の角を隅切りして開口を取りやすくした形で、切妻屋根建築の養蚕対応型と解釈できる。切妻の影響域に近い八王子【一番下の図】ではこの絵で見るように屋根裏の床レベルまで狐格子がついていた。 広域的状況からすれば武蔵の国は元々は寄せ棟域であったと想像できる。そこに山岳地帯から養蚕建築が伝播してきて武蔵の国の養蚕をしている農家全体に広がったのではないか。元々寄棟であったこの地域では、八王子より少し小さな入母屋になったのではないか。
 隣町の瑞穂町誌(昭和49年4月)によると、茅葺屋根裏の養蚕利用を図入りで次のように記載している。上屋梁が里山民家より短い3間半の空間である。(よって天井高も里山民家より低い) 『上屋梁面のスノコ床をタナという。その上部にもう一つスノコの床(これを大タナという)を作る。下層部(タナ)両側の屋根面から、ヤトイタナを吊るして取付ける。タナも大タナも養蚕には重要な作業場で、蚕がヤトウのはここで行った。』と。

屋根裏で蚕を飼っていた時代の余談:以前、伊勢神宮に詳しい先生に茅葺きの話をお聞きしことがある。『いやー、茅葺きは大変なんだよ、しばらくすると乾燥の悪いところにかびがはえてね、それを幼虫に食べさせるためにカブト虫が卵を産むんだよ。幼虫が育つと今度は鼠がカブト虫の幼虫を食べにきてさ、最後にはその鼠をイタチが食べようと追い回して、もう茅葺がめちゃくちゃになっちゃうんだよ』って。そんなもんかと思っていたら、このカイコを屋根裏で飼う時代の資料に、かなりのカイコがねずみに食べられちゃった話が出てくる。確かにカイコとカブトムシの幼虫は似ているともいえますが。そこではイタチの代わりにヘビがでてくる。蛇の神話は昔からあるが、養蚕との関係で、農家にはいっそう大切な神様になったのではないかと想像される。蔵に住んでは米を食い荒らす憎っくき鼠を、そして主屋の屋根裏に住んではカイコを食う憎っくき鼠を、食ってくれた。青大将を地方によっては、ネズミトリと呼んでいる。
茅葺屋根の形式名


↑関東地方の屋根型地図:何故か武蔵だけが入母屋である

関東地方・屋根の伏図と妻側面図:左から甲州、上州、八王子在

同上姿図:上から甲斐勝沼、甲斐五箇村、上州赤城、八王子
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