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入家住宅の地域的特性 民家の観かた5:民家の構造規制
4.民家の構造規制
江戸時代は身分によって生活の仕方が違い、家の造り方についても、それぞれ取り決めがあった。武士階級でさえ贅沢は許されず、家の大きさの制限中に、梁の長さの規制があり、それによって屋根裏の広さ や架構の組立て方に影響した。 家康の死後、30年位に出された徳川禁令考に、万石以下の士分は、座敷2間半梁、ダイドコロ3間梁までという制約がある。それからだんだんと対象石高が小さくなって、規制としては緩くなっていくのであるが、その80年後くらいに日本中に出された御法度書で、『民家を新しく作る場合は、長押を付けてはいけない、梁は3間までとする』という制限を出している。上屋梁の長さは家の広さに密接に関係している。この規制が江戸時代を通して支配的であったから、大きな家を作るために構造制限を守りながらあの手この手と工夫した。
ここにある断面図【ABC図】は、その展開例である。
A図】は東久留米にあった家で、上屋梁は2間半梁でできているが、持ち出した上屋梁の上に下屋を乗せる事によって、表、裏(南と北側)にそれぞれ2間巾の部屋を取っている。
B図】は上屋梁が3間で大黒柱が一間間隔に立っている。架構技術的には少し古い形式であるが、屋根裏は前者に比べて広い。表2間、裏1間半、或は広間3間半と前者より小さいが、茅葺屋根は非常に大きく作られている。
C図】は名主の家で上屋梁は確かに3間であるが、下段にもう一段の梁を通し、そこから束立てをして上屋梁を受け、実に梁間5間半の大型建築となっている。
ところが旧宮鍋家住宅【図】は上屋梁が、3間を越え4間である。昭和40年代の調査時まで砂川新田に残っていた江戸期の民家で上屋梁が4間の民家は他にもある。玉川上水駅近くに移築展示された小林家住宅は江戸末期に砂川新田(里山民家から4.5km)に建てられたが、宮鍋家と同じように上屋梁が4間である。これらの事を考えると江戸後期は禁令が相当緩んできたのか、あるいは、白川村の合唱造りのように養蚕の飼育のために黙認されていたかである。他地方の江戸期民家で上屋4間梁は少ないことを考えると、後者である可能性が高い。屋根裏をどう利用するにしろ床巾4間で矩勾配屋根の空間(高さ2間)は十分な広さがある。土間・床上境の軸組み図を見ると架構技術は、かなり発展した形式である。B図のように古式の構造は大黒柱が1間おきに立っているのに対し、大黒柱1本で3間も飛ばし、それを両側から差し鴨居で受けるというのは高度な技法である。

A■上屋2間半の屋根裏

B■上屋3間の屋根裏

C■梁間5間半の大型民家
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