鈴木啓二/建築設計社のホームページ
入家住宅の地域的特性 民家の観かた8:だいどころ廻り
E.だいどころ廻り
ダイドコロという部屋名は、全国的にはここでいうカッテをさす場合が多いが、ここの地域では竈(かまど)、水屋のある土間部分をいう。 ■竈(ヘッツイともいう):他の民家園では土間と平らにカマドを設けている例が一般的であるが、ここでは床を掘り窪めて作っている。右図は昭和初期に書かれた武蔵野民家の絵で、その時点でも、まだ、この形式であった。雑木林から取ったタキギは燃やすと沢山の灰がでる。図はその灰を一箇所に集めているところで、旧宮鍋家住宅の掘り返し調査でもこの図と同じように、最も深い竈の遺構は約60cmの深さからでてきた。その時代、農家は金肥(キンピ:お金を出して買う肥料)を手に入れづらかったので、自給の肥料:灰は大切にしなければならなかった。そして運び出して貯めておく灰小屋が前庭にあるのが一般的であった。 竈は日常生活では二つくらいしか使わなかったようであるが、幾つもある家まであった。人寄せのときや所帯の大きな家では沢山の数が必要で、竈の数をみると、生活ぶりや家の格が想像できる。
■ 大戸口(オオドグチ:トンボグチともいう) この家の中で、だいどころだけが7尺間(東日本の民家では普通6尺間なので1間の寸法が6尺である)なので、大戸口の扉巾は柱芯々で7尺もある大きな扉である。これは農作業用の入口で、ダイドコロでの作業を行うために日中は開け放しで採光窓にもなっている。旧宮鍋家住宅はだいどころの中にうまやが2室あり、うまの出入りにも使うため高さが8尺あり、全体が引戸になっていてそっくり開く。夜など人だけの出入りは小さいほうが便利なので、大戸の中に板戸と障子の小さな潜り戸(半戸口)を嵌め込んでいる。一説では泥棒に物を持ち出されずらいように潜り戸になっているそうである。
■うまや 宮鍋家では明治10年まで馬を飼っていたという。トンボ口は地面から8尺以上もある高さで人が馬に乗ったままで出入りできるように作ったという伝承がある。江戸期、農民にとって馬は大きな財産であり、富裕な農民しか持てなかった。家に残る書付から江戸中後期ごろ名主をしていたという家柄であり、2頭いてもおかしくはない。その馬で駄賃つけ(運搬業)もしていたという。 うまやは床を窪めて作っている。これは馬の健康のためと農業生産の両面から必要であった。現在でも厩舎での世話は敷き藁を替えることが重要な仕事で、全体量の四分の一ほど、毎日替えてあげるそうだ。人間と同じで気持ち良い環境で生活することが健康に良く、家族の一員だった馬はその窪みにせっせと藁を変えてもらったことであろう。また、取り除いた敷き藁は捨てなかった。(生活の全てについて、里山民家から捨てるものは一切なく、全ての物をリサイクルしていた)  馬糞とオシッコの混ざった敷き藁は、江戸時代には大切な堆肥の材料であった。
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